- 矢野燿大選手が引退記者会見
- 2010年09月03日 更新
9月3日、矢野燿大選手(41)が今季限りでの現役引退を表明し、同日大阪市内のホテルで記者会見を行いました。南球団社長同席のもと会見に臨んだ矢野選手は、こみ上げる感情に時折声を詰まらせながらも、20年間に及ぶ現役生活振り返り、感謝の気持ちを表しました。
矢野選手引退記者会見
まず今日はわざわざ、お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。そして球団には、一軍が優勝争いをしている大事な時にもかかわらず、申し訳ない気持ちと有り難い気持ちの両方を持ちながらここに上がらせていただいています。社長からもありましたように、今季で引退する事を決意いたしました。振り返ると、本当に夢のような、僕の想像する以上に素晴らしい野球人生を送らせてもらったと思っていますし、僕にとって最高の人生だったと思います。周りのたくさんの方々の支えでここまでやってこれました。本当に今まで、ありがとうございました。
―引退を決意され、表明された今の気持ちは?
去年も働けなくて、今年も働けなくて、本当に色々と悩んで、という日々が続いていたんですけれど、自分の中で辞めると決めてからは、すっきりしたというか、ちょっと肩の荷が下りたような気分です。
―決断された一番の理由は?
まあ理由はたくさんと言いますか、ヒジの事はもちろんその一つにはなるんですけれど、それだけではないですし。心・技・体、全ての面で、一軍の戦力になるっていう事が出来なくなってきたのかなと。
―いつ頃からその様に考えられて、いつ頃決断されましたか?
悩むのはこの3年くらいずっと、そういう事が頭をよぎりながら・・・。いい日があれば、「あぁ、今日は出来た、まだまだ頑張れる」、悪い日があれば「明日から大丈夫かな?」とそういう事を考えながら日々を過ごしてきましたけれど。悩みに悩んで、決めたのは本当にちょっと前というか、最近ですね。
―ご相談された方は、またどんな言葉を?
両親と奥さんには一番に伝えました。まあ、寂しいというのもあったでしょうし、頑張ったっていうのもあったと思います。僕が決めた事であればと、僕の気持ちを尊重してくれました。
―今年、2010年にかける思いはかなり強かったと思うのですが。
結局、何も出来なかったですけれど。キャンプに入る時から、今年ダメであれば最後になるかもしれないという気持ちを強く持って、日々、自分の中でベストを尽くしてきたつもりですけれど。
―一軍では控えのキャッチャーとして、肩を作る投手のキャッチボールの相手もされてきました。
正直、なかなかやりたい仕事ではないですし、本当はキャッチャーボックスで自分のマスクを被って、勝利の瞬間を球児と喜び合ってと。そういう自分でいたいと思っていたんですけれど。でも今年に関しては、自分の出来る仕事はそういう部分でしたし、チームの為に出来る事っていうのを考えながらやっていました。
―そういう悔しさがある中でチームの為にというのは、言葉で言うほど簡単な事では無かったのでは?
そうですね、でもこれで人生が終わるわけではないので。僕の人生の分岐点っていうのは、いつも悔しい思いがあったり・・・。これからもっと、成長出来るように頑張ります。
―中日時代、プロ野球入団の頃を振り返ってどうですか?
まさかこの歳まで野球が出来るとは思っていませんでしたし、「何年でクビになるのかなぁ」というところからのスタートでした。いろんな人に指導してもらってここまでこれましたから。まあ、タイガースでこんなにいい思いが出来るとは思いませんでした。
―1998年にタイガースへ移籍、この移籍は矢野さんの野球人生にとってどんな出来事でしたか?
やっぱりその時はすごく悔しかったし、「見返してやりたい」という気持ちもありました。またキャッチャーが出来るという喜びもありました。でも見返してやりたいという気持ちが一番強かったですね。
―野村監督との出会いもありました。
本当にキャッチャーとしてたくさんの事を教えていただきましたし、今の僕があるのは野村監督の教えに拠るところが多いと思うし。やっている時は辛かったですけれど、今思えば・・・、感謝しています。当時は新聞を見るのが怖くなりましたね。「矢野のリードが・・・」というのが。逆に唯一、一回だけというのも失礼ですけど、褒められたというか、頑張れ、というメッセージをいただいた事があって、それは励みになりましたね。
―星野監督とは中日時代から
もう存在が大きすぎて・・・。プロに入団したときもそうですし、初めて優勝させてもらったのも星野監督でしたし。これから僕が野球を教えていく立場になっていく上でも、監督の考え、教えっていうのは僕の支えになっていきますし、一番の恩師です。
―現役20年の中での思い出のシーンは?
もちろん優勝はいい思い出として残っていますし。まあ中日時代になるんですけれど、僕の初ヒット、初ホームランの時、たまたま甲子園の阪神戦だったんですけれど、試合に負けると誰も近寄れないような感じの監督が、手を出してくれて・・・。
―矢野さんにとってどんな20年でしたか?
本当にもう、感謝の気持ちでいっぱいです・・・。
―今チームは優勝争いをしている最中で、残り28試合、更にクライマックスも控えています。
今僕は鳴尾浜にいるので、若い選手の手伝いをしたり、ブルペンに入ったり。僕の出来る事をやって、伝えられる事を伝えていければと思っています。
―若い選手に伝えていきたい事は?
やらなければ何も起きないので、やっぱり迷ったらやってみる、迷ったら前に進む、という事ですかね。
―いつも「矢野のおかげ」といっていた下柳投手には?
あれだけキャッチャー思いのピッチャーはいないですね。ぼくも幸せを感じながら、キャッチャー冥利に尽きる、という思いでリードしてきました。楽しかったですね。まあ、寂しがってくれているとは思います。
―この報告には首を振らないですか?
そうですね・・・、振らせないです(笑)。
―金本選手も共に、互いに影響しあった仲だと思うんですけれど。
そうですね、カネもシモも野球人として尊敬出来る二人ですし、先に辞めるのはちょっと悔しいですけれど・・・、これからも活躍を期待しています。二人には特別な思いがあります。
―チームメートに対してはどういう思いを?
本当に僕の個人的な事で、このような形でチームにも迷惑をかけてしまったと思いますけれど。やっぱり優勝っていうのはなかなか出来る事ではないし、こんなにいいチャンスは無いと思うので、是非とも優勝して欲しいと思います。僕も戻れるように頑張ります。
―ファンに対しては
今日もそうですけれど、こうやって辞めていけるのは本当に幸せな事だなと。たくさんの先輩や後輩が去っていく中で・・・。幸せを感じながらプレーをさせてもらったっていうのは、ファンのおかげだと思います。くじけそうな時も頑張れと、後押しをしてもらいましたし。そういう後押しが無ければ、阪神タイガースも成り立っていかないですから。そういう事をひしひしと感じながらやってきました。
―矢野さんの目に浮かぶものは、どういう思いからこみ上げてきたものだと?
本当にもう、ありがたいですし、恵まれているなという・・・。
―最後にこれだけは言っておきたいという事などは?
そんなにカッコいい事は無いですけれど。同じ事になるかもしれませんが、これで終わるわけではないので。色んな勉強をして、吸収、成長をして・・・。どういう形になるか分からないですけれど、皆さんの前に帰ってこれるように頑張りたいと思います。
星野SDのコメント
4日ほど前にいっしょに食事をして、昔話をたくさんした。中日時代の私が元気な頃の話で盛り上がったんだけども、結果的に入団時から辞める時まで、私はそばにいたわけで、ありふれていても、本当によく頑張ったと、彼にはこの言葉がぴったりじゃないかな。入った時からセンスは抜群で、足も速かったし内野手でも外野手でも成功できたと思う。阪神に移籍してからは球界を代表する捕手として活躍したが、矢野なくして03年も05年も阪神の優勝はありえなかった。北京五輪の日本代表でも、選手としてだけでなくチームリーダーとしても力を発揮してくれた。本当にお疲れさん。でも、これからもまだまだ勉強だし、誰にも負けない知識と経験を武器に、立派な指導者になってほしい。