1948年~1949年 |
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猛虎爆発!ダイナマイト打線誕生
1番金田正泰、2番呉昌征の巧打俊足、3番別当薫、4番藤村富美男の豪打、5番土井垣武、6番本堂保次のしぶとい打撃、7番8番は後藤次男、安居玉一の強打、あるいは長谷川善三の巧打。そして白坂長栄、西江一郎、大館勲、谷田比呂美、門前真佐人と充実の控え。そのスタートは47年だが、48年入団の別当薫が加わり、プロ野球史上に残るバランスのとれた強力なバッティング・オーダーとなった。
1948年、大阪タイガースが変わったユニフォームを採用した。俗に「黒のユニフォーム」と言われるユニフォームである。 当時のモノクロ写真で見ると確かに黒に見えてしまうのだが、実際は濃紺色のユニフォームだった。
実はこのユニフォームが登場した理由は、戦後の物資不足という話をタイガースのオールドファンから聞いたコトがある。
本当は伝統の縦縞のユニフォームにしたかったのだが、縞の生地が手に入らず、やむなく紺色の生地で仕立てるコトになってしまったという。戦時中、タイガースはユニフォームの生地の反物を疎開させていて、戦後プロ野球が復活したときには、それを使って縦縞のユニフォームを製作していた。しかし、ついにその生地も切れてしまったらしい。
48年頃の日本は街にまだ闇市が立ち並んでいた経済統制の時代。伝統などと言う以前の問題として、ユニフォーム用の生地を手に入れるコト自体がたいへんだったのである。
そんな事情が生み出したこのユニフォームだが、かつて史上最強と謳われたダイナマイト打線の看板を背負って登場したために、タイガースのユニフォーム史の中では、特別に強い印象を人々の間に残すコトになった。
主に現在で言うところのビジター用として使われていたそうで、後楽園球場でよく見かけたという話を聞いたコトがある。当時はホーム、ビジターの概念はなかったが、主に遠征用に使われていたようだ。
使用期間は48年と49年のわずか2年とごく短期。ところがこの時代を知らない世代の間でも、この異端のユニフォームの認知度は非常に高い。かつてタイガースが黒いユニフォーム(正確には紺色だけど)を着ていたコトを知っている人はけっこう多いのだ。
これはまさしく伝説のユニフォームである。
しかし50年の2リーグ分立騒ぎの中で、別当薫、土井垣武、呉昌征、本堂保次といった打線の主力打者が毎日オリオンズに引き抜かれ、ダイナマイト打線は崩壊。そしてこのユニフォームも姿を消した。
つまりダイナマイト打線と共に生まれ、その崩壊に殉じたユニフォームでもあった。