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特設コラム 若林忠志が見た夢阪神タイガースが創設を決めた「若林忠志賞」は社会貢献活動やファンサービスで顕著な功績のあった選手に与える「グラウンド外のMVP」。球団創設時からの主力投手、監督も務めた若林忠志の功績を称えたものだ。「七色の魔球」と呼ばれた多彩な変化球を駆使する元祖頭脳派で、阪神であげた233勝は今も最多記録。球団歌やシンボルマークの作成にも関わった。戦後は今に通じる「タイガース子供の会」を立ち上げ、各種施設を慰問するなど慈善活動に努めた。東日本大震災を受け、「野球の力」が問われるいま、プロフェッショナルとしてのあり方を示した若林の姿勢が見直されている。若林の野球人生を振り返り、描いた「夢」を追ってみたい。(文中敬称略)

Vol.4 戦争を越えて 2011/8/1更新

20回の大延長

太平洋戦争に突入する1941(昭和16)年、中等野球(いまの高校野球)夏の甲子園大会は文部次官通達により予選半ばで中止となった。そんな7月13日、西宮での大洋戦、先発した若林は延長20回を1人で投げ抜いた。サヨナラ負けだった。読売新聞の戦評が<武運拙く敗れたとはいえ、若林の孤軍奮闘、殊にその精神力は若手選手の亀鑑(きかん)としてよい>と称えている。

延長20回は当時のプロ野球記録(翌1942年5月24日、大洋-名古屋戦の延長28回が更新)、いまも阪神の球団記録だ。このシーズン、若林は18回完封や17回1失点完投勝利など大延長を投げ抜いている。相次ぐ選手の召集で戦力乏しいなか、チーム84試合の半分42試合に登板、その半分の21試合に完投、18勝をあげた。

野球の「日本化」

実は前年1940年、日本職業野球連盟は引き分けや打ち切り試合を廃止していた。勝負は決着がつくまで行うべきという軍の姿勢に従った。投手も完投が美徳とされた。また球団名の日本語化を定め、タイガースは「阪神」に改称した。ユニホームからローマ字が消えた。1943年には野球用語すべてが日本語化するよう通達された。審判はストライクを「よし」とコールし、「1本、2本」と数えた。

開戦で監督昇格

1941年12月8日は西宮市甲子園の自宅で迎えた。日本軍の真珠湾攻撃はラジオで聴いた。故郷ハワイが燃えた。同郷のカイザー田中義雄からの電話に若林は答えている。「心配はいらない。今まで通り野球をしていればいいんだ」

この12月に監督・松木謙治郎が退団し、若林は助監督から第4代監督(投手兼任)に就任した。松木は後に「日米開戦で決心した」と明かし、名古屋の大同製鋼(現大同特殊鋼)へ入社していった。

「二式飛行艇」の製造や戦闘機「紫電改」を開発していた川西航空機(今の新明和工業)鳴尾工場へ勤労動員されたのはこの当時だ。「空手チョップ」の力道山も当時は尼崎に拠点を置く大相撲・二所ノ関部屋の若手力士で、同工場などに勤め、親交があった。

海軍紫電改局地戦闘機=新明和工業提供=
飛行艇の肋骨組立て作業=新明和工業提供=
1943年(昭和18)8月、戦時中の金属回収で取り壊される甲子園球場の大鉄傘=毎日新聞社提供=
軍帽姿で指揮を執る若林
=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』より=
大鉄傘に別れ

戦前の甲子園球場名物だった大鉄傘は軍部から金属供出の要請で撤去された。作業は1943年8月に始まった。本格的な取り壊しに入る前日、8月18日の名古屋戦で若林は完封勝利を飾った。日よけ雨よけとなり、また歓声をこだまさせるなど、人々に親しまれてきた大鉄傘に別れを告げる快投を演じたのだった。

1944年、ユニホームは国防色(カーキ色)、帽子は戦闘帽(軍帽)、脚にゲートル巻きという戦闘服スタイルとなった。背番号も廃止され、興行色は消えた。春夏秋の3季に分けたシーズンだったが、秋季は各チームに応召者が続出し、打ち切られた。春夏の成績で阪神は巨人に大差をつけて優勝した。若林はまさに孤軍奮闘。チーム35試合のうち31試合に登板、22勝4敗。最多勝の若林に次ぐのは藤本英雄(巨人)の10勝で、いかに頭抜けていたかが分かる。最優秀防御率も獲得し、文句なしの最高殊勲選手(MVP)だった。

伝説の正月大会

日本野球報国会と改称していた連盟は11月、休止の声明を発表した。だが1945年1月には関西正月大会が開かれている。「プロ野球の灯を消したくない」と阪神球団常務・田中義一が呼びかけ、4球団27人が集まった。阪神・産業で猛虎軍、阪急・朝日で隼軍と2チームを編成。元日から5日まで、甲子園と西宮で連日2試合を組んだ。

大会は当時、大阪医専(現・大阪大医学部)の学生だった伊藤利清がスコアブックに記録。「伝説」をよみがえらせた。伊藤は若林の大ファンだった。甲子園球場に隣接して学舎があった旧制・甲陽中(現甲陽学院高)時代に手紙を送り、親しくなった。

1月3日の甲子園での5回戦は5回裏途中、空襲警報発令で中止となっている。最終日の5日は「プロ野球が死んだ日」と呼ばれる。伊藤の日記によれば、選手たちが再会を約束したのが3月14日だった。だが、前日13日夜からの大阪大空襲で開催不可能となった。

阪神球団も解散となった。若林は後に<互いに手をとり再起の日を誓い合った>と手記に書いた。野球ができる日が来ることを信じ、家族が疎開する妻・房(ふさ)の故郷、宮城県石巻に向かった。

軍帽姿で投球練習する若林
=野球体育博物館所蔵=
若林が受けた昭和19年当時のMVP表彰状。「最高殊勲選士」と表現している=野球体育博物館所蔵=
伊藤利清さんが記録した昭和20年1月1日、猛虎―隼戦のスコアブック=伊藤多慶子氏所蔵=
伊藤利清さんのスコアブック。5回途中、「警戒警報発令ノタメ中止」とある=伊藤多慶子氏所蔵=

若林忠志をもっと詳しく知りたい方のために!

<筆者略歴>

内田 雅也(うちた まさや)
1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。