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特設コラム 若林忠志が見た夢阪神タイガースが創設を決めた「若林忠志賞」は社会貢献活動やファンサービスで顕著な功績のあった選手に与える「グラウンド外のMVP」。球団創設時からの主力投手、監督も務めた若林忠志の功績を称えたものだ。「七色の魔球」と呼ばれた多彩な変化球を駆使する元祖頭脳派で、阪神であげた233勝は今も最多記録。球団歌やシンボルマークの作成にも関わった。戦後は今に通じる「タイガース子供の会」を立ち上げ、各種施設を慰問するなど慈善活動に努めた。東日本大震災を受け、「野球の力」が問われるいま、プロフェッショナルとしてのあり方を示した若林の姿勢が見直されている。若林の野球人生を振り返り、描いた「夢」を追ってみたい。(文中敬称略)

Vol.8 2リーグ制構想 2011/10/1更新

「虫」が伝えた本心

若林は1948(昭和23)年、一般ファンを対象とした新雑誌『ボールフレンド』をつくった。巻頭の「創刊にあたりて」で<球が命。その球の友にお報いする>と書き、一監督や選手としての立場を超え、ファン育成の趣旨を説いている。<日ごろ、他の雑誌を通じて言えなかったことも、自分の雑誌で思う存分述べたい>と宣言した。

注目すべきは「虫のたわ言」と題した雑報欄だ。虫とは「野球の虫」で、若林が球界諸問題に意見を書く。<野球の発展向上のためには、どうしてもアメリカのごとく2大リーグの対立是非。国民リーグに雌伏5年の秋(とき)を待つ>。過去に春秋2シーズン制や東西2地区制は提案していたが、2リーグ制を表に出したのは初めてだった。

文章が書かれた時期を確認しておきたい。印刷納本が1948年2月20日。年末年始も妻子が帰省した宮城県石巻に帰らず、創刊準備に動いていた若林は1月ごろに書いたものと思われる。表だって2リーグ制を提唱する者がいなかった時である。

異端者へのエール

エールを送った国民リーグは1947(昭和22)年3月に誕生したもう一つのプロ野球だった。戦後、自動車クラクション製造で巨額の利益をあげた宇高産業社長、宇高勲が主導していた。日本野球連盟への加盟も申請したが、「8球団制堅持」の申し合わせの下、各本拠地から閉め出された。同リーグ4球団は地方巡業を強いられた。観客動員の不振に巨額の税金にも悩まされ、結局1年で消滅した。本流を行くプロ野球から見れば、異端者だった。若林は個人的な交流があったわけではない。新球団に夢を描いていた。5年たてば、日本野球連盟と対等に戦える。大リーグのような2リーグになる。日本版ワールドシリーズができる。さらに、勝者が大リーグ王者に挑戦しようじゃないか――と夢を膨らませていた。

アメリカが背中を押していた

若林の2リーグ制を提唱した翌1949(昭和24)年、球界は再編騒動に揺れた。口火を切ったのは日本野球連盟名誉総裁、正力松太郎の「3大声明」だった。4月15日、東京・丸の内の日本工業倶楽部で記者会見を開き、「2大リーグの育成」「東京に新球場建設」「米球団の招待」を打ち上げた。

背景に戦勝国アメリカの思惑もあった。スポーツ、特に人気のプロ野球を発展させ、懐柔しようとする占領政策の一環でもある。連合国総司令部(GHQ)経済科学局長の少将ウィリアム・マーカットは事前に「2リーグ制は日本のプロ野球に進歩をもたらす」と勧めている。実はマーカットと若林は旧知の間柄だった。ハワイ・マッキンレー・ハイスクール当時の1924年、日系人チーム「朝日軍」の一員として、白人の「ワンダレス・クラブ」と対戦した。その遊撃手がマーカットだった。ある時、GHQから呼び出しを受けた若林はマーカットと20数年ぶりに再会。マーカットは「今の日本の世相を明るくするのはスポーツ(野球)以外にない」と説いた。「プロ野球発展に必要な2リーグ制を推進できるのは、オーナーで正力松太郎、プレーヤーでボゾ、君よりいない。援助は惜しまない。どんな障害も乗り越えて実現に努力したまえ」

マーカットはまた正力声明にある米球団招待で、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーに3Aサンフランシスコ・シールズを推薦、説得した。来日が決まった9月、シールズ監督、フランク(レフティ)・オドールが若林にあてた手紙が残る。写真や資料を同封し「再会が楽しみだ」と記されていた。オドールは1931(昭和6)年、34(昭和9)年と2度、大リーグ選抜チームの一員として来日。全日本チームの選手兼通訳として活躍した若林と親交を深めていた。

サンフランシスコ・シールズと全日本の試合前。右から若林、オドール監督、藤本定義、鶴岡一人(1949年10月)
=若林忠晴氏所蔵=
昭和24年、日米野球でのオドール監督(中央)と全日本の若林(左)、別当(右)=若林忠晴氏所蔵=
1948年のプロ野球開幕戦でスタンドから始球式するマーカット少将=『真説 日本野球史』より=
オドールから若林に届いた手紙。「フランク・オドール」と自筆のカタカナ文字も見える=若林忠晴氏所蔵=
毎日の勧誘

球団拡大を進める正力が白羽の矢を立てたのは毎日新聞だった。「利行は一法なり」という禅の教えを信条とし、「競争は発展の母」という考えがあった。将来の2リーグ制をにらみ、一方の「盟主」として期待を寄せ、球団設立を持ちかけたのだった。

毎日のチーム編成、後の引き抜きなどで主役を演じたのが黒崎貞治郎だ。戦前、『長崎物語』や『空と神兵』を作詞している。1949年は東京本社で社会部長にあった。

8月8日、遠征から甲子園口の自宅に帰った若林は妻・房(ふさ)に黒崎から電話があったと聞いた。若林がすぐ応じたのは理由がある。黒崎とも旧知の間柄だった。

黒崎の方は夕刊新大阪で編集局長時代の1947(昭和22)年に主催したプロ野球東西対抗からの縁だと語っている。だが、若林は引退後の手記で、1931(昭和6)年4月の対面が描かれていた。法政大リーグ優勝記念の米国遠征、バンクーバー航路で乗りこんだ「日枝丸」船中で<1人の新聞記者と仲良くなった。これが黒崎さんだった>とある。<戦後に会ったとき、球団を持ったらどうかと話したことがある。黒崎さんは「球団をつくるときは協力してくれるか」と言うので、僕はもちろんOKした。「その時は君が阪神を辞めてくれないと困る」と言うが、「今は何とも言えない」と答えていた>

黒崎が会談場所に使ったのは大阪・北新地の割烹「甚五郎」だった。かつて大阪・堂島にあった毎日新聞大阪本社の通用口からすぐの所だ。黒崎は球団設立の趣旨を伝え、協力を願い出た。「国民リーグの二の舞は絶対にやらん」と言った。「あるのは決心と理想だ。理想的な球団をつくるにはどうしたらいいか」。口説き文句だった。

若林と黒崎が初めて出会っていた日枝丸と同型の氷川丸。現在も横浜・山下公園前に係留されている。
1953年11月、日比親善野球で渡比調印後、握手を交わす毎日・黒崎貞治郎球団代表とフィリピン側代表のヤプティンチャイ氏。後方は毎日・若林忠志監督(右)とパ・リーグ使節の南海・垂井芳太郎球団代表=毎日新聞社提供=
毎日球団代表当時の黒崎貞治郎氏(左)とセ・リーグ会長当時の鈴木龍二氏=『鈴木龍二回顧録』より=
毎日・黒崎貞治郎が引き抜きの勧誘に使った大阪・北新地の「甚五郎」

若林忠志をもっと詳しく知りたい方のために!

<筆者略歴>

内田 雅也(うちた まさや)
1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。