Vol.1 タイガースの礎 2011/6/15更新
破格の契約金1万円
若林忠志がタイガースと正式契約を交わしたのは1936年(昭和11)1月9日だった。ライバル球団の巨人、阪急との激しい争奪戦の末、阪神が獲得した。
契約書にある「割増前渡給料」とは契約金だ。プロ野球草創期、まだ契約金の概念がなかった。阪神は給料とは別に支度金9000円と移転費1000円を支払った。
この1万円は相当に破格であった。同じく創設時メンバーで主将だった松木謙治郎は「長屋が10軒建ち、その家賃で一生遊んで暮らせた」と伝えている。大卒初任給90円、東京-大阪汽車賃6円の時代である。今で言えば数千万円、いや1億円ほどの値打ちがある。あまりの大金に、銀行が阪神電鉄幹部の身分を怪しみ、送金を拒んだ逸話が残る。
当初、阪神の提示額は阪急と同じ月給500円だった。若林は監督・森茂雄の月給250円を引き合いに「月給はチームのバランスもあり半分の250円で構わない。契約金として前払いで1万円もらいたい」と提案したのだった。プロ1年目開幕前には28歳になる。学生結婚し、子どももいた。残り半分の月給250円の3年分を保証として手にしたかった。
「職業野球」と呼ばれていたプロ野球の社会的地位は低かった。例えば、後の1938年暮れに南海入りする鶴岡一人は「世間からはまるで芸者が身売りするように見られていた。学校(法政大)は反対。卒業記念の時計ももらえなかった」と話していた。
「必ず日本のプロフェッショナル・ベースボールを隆盛させて見せる」。ハワイで生まれ育った若林は、米国では「国民的娯楽」で、大リーガーが国民から尊敬の念を持たれていることを知る。日本で産声をあげたばかりのプロ野球を支えていこうとする情熱があった。
「六甲おろし」誕生を仲介
1935年(昭和10)12月10日に大阪野球倶楽部として設立された球団のニックネームは阪神電鉄社内の公募から「タイガース」と決まった。次いで、今では通称「六甲おろし」として人気の球団歌「大阪タイガースの歌」(後に「阪神タイガースの歌」と改称)を作成している。戦前から残る球団歌は他になく、今の12球団で最古のものだ。
- 背番号18を背負った若林(『阪神タイガース 昭和のあゆみ』より)
- 若林が阪神と交わした契約書の数々。昭和11年入団時には「割増前渡給料」の名目で契約金が支払われた(若林忠晴氏所蔵)
- 球団歌の歌詞が付いた阪神球団創設時のメンバー表(若林忠晴氏所蔵)
- 球団結成1936年当時のポスター。九州遠征当時のものと見られる(野球体育博物館蔵)
作詞・佐藤惣之助、作曲・古関裕而の大物コンビを仲介したのが若林だった。レコード会社の社会人・日本コロムビア(川崎市)時代に佐藤と親交があり、古関は同社専属だった。1935年の都市対抗では神宮球場スタンドで古関指揮のブラスバンドが演奏し、淡谷のり子ら人気歌手が若林の快投に声援を送っていた。
トラ・マークを発案
球団歌の披露は1936年3月25日、甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)での球団結成披露宴だった。来賓200人に日本コロムビア歌手、中野忠晴が吹き込んだレコードと歌詞付きメンバー表が配られた。ここにトラのマークが印刷されている。
今のマスコット・マークの原型である。これも若林が仲介した。ハワイの母校マッキンレー高校のマスコットがトラだった。若林がプロ入りする際、同校同窓生の日系2世、保科進がデザインして手渡した。保科は法政大アメリカンフットボール初代監督で国内の競技発展に尽くした。若林の妻・房(ふさ)の従妹・みちと結婚しており、2人は親類関係にあった。
マークを完成させたのは阪神電鉄事業課デザイン室にいた早川源一だった。迫力ある打撃フォームが強烈な印象を与える、有名な「大阪タイガース来る」のポスターでは、今に通じるトラ・マークが見える。以来、微妙な修正を加え、現在に至っている。
若林が起こしたトラは時を超え、今も吼(ほ)え続けている。若林は当時の日本にはなかったプロ野球チームとしての基礎を築いたのだった。
- ハワイ・マッキンレー高校の看板。マスコットのトラが描かれている(大森正樹氏提供)
- 早川源一氏作のトラ・マーク原画(石飛弘一氏所蔵)
- 阪神球団に残るトラ・マーク方眼描画
<筆者略歴>
- 内田 雅也(うちた まさや)
- 1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。