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特設コラム 若林忠志が見た夢阪神タイガースが創設を決めた「若林忠志賞」は社会貢献活動やファンサービスで顕著な功績のあった選手に与える「グラウンド外のMVP」。球団創設時からの主力投手、監督も務めた若林忠志の功績を称えたものだ。「七色の魔球」と呼ばれた多彩な変化球を駆使する元祖頭脳派で、阪神であげた233勝は今も最多記録。球団歌やシンボルマークの作成にも関わった。戦後は今に通じる「タイガース子供の会」を立ち上げ、各種施設を慰問するなど慈善活動に努めた。東日本大震災を受け、「野球の力」が問われるいま、プロフェッショナルとしてのあり方を示した若林の姿勢が見直されている。若林の野球人生を振り返り、描いた「夢」を追ってみたい。(文中敬称略)

Vol.3 草創期の苦闘 2011/7/15更新

初試合完投勝利

若林忠志はタイガース初試合で勝利投手となった。創設初年度の1936(昭和11)年4月19日、春の選抜大会を終えた甲子園球場で「球団結成記念試合」が行われた。東京セネタースを迎えての試合は正午開始。先発した若林は3安打1失点で完投。奪三振は5個と少なく、打たせてとる本来の投球がうかがえる。この日はダブルヘッダーで、第2試合の名古屋金鯱軍も5-3で破った。幸先よい船出だった。

沢村栄治との投げ合い

後に「伝統の一戦」と呼ばれる巨人との記念すべき初対戦は6月27日。この年、巨人は米国遠征に出ており、当初は国内試合に不参加だった。帰国を待ち、「帰朝歓迎試合」として甲子園球場で行われた。タイガースは若林、巨人は沢村栄治と両エースを先発に立てた。試合は両投手乱調で点の取り合いとなり、タイガースが8-7の1点差で競り勝った。

快速球の沢村に対する豪打の景浦将、「七色の変化球」若林との対決は草創期のプロ野球の売り物だった。公式戦での若林の巨人戦成績をみると、79試合に登板し、28勝30敗。このうち若林、沢村双方が登板したのは13試合(両者先発は7試合)を数える。ともに勝敗がつかなかった試合も多く、通算では若林の3勝2敗だった。

洲崎の決戦

初年度1936年のシーズンは勝ち点制で、タイガースは同点の巨人と年度優勝決定シリーズを戦っている。伝説として残る「洲崎の決戦」だ。12月9日から東京・洲崎球場での3連戦で、1勝2敗と覇権を逃した。若林は第2戦で今の規定で言うセーブをあげて勝利に貢献。決戦となった最終第3戦は5回から救援し4回を零封したが、沢村の踏ん張りの前に反撃なく敗れた。

タイガース結成記念試合。金鯱、セネタースナインとともに
=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=
沢村栄治
洲崎球場跡地に建つ史跡説明板
史跡説明板には洲崎球場のグラウンド方向も示されている
温泉治療で復活

タイガースは2年目の1937(昭和12)年は秋のシーズンで初優勝、巨人との優勝決定シリーズにも勝って、初の年間王者となった。若林も春秋通算で17勝を挙げたが、当時主戦格で活躍していたのは御園生崇男や西村幸生だった。30歳を前にした若林はこの頃、激しい右肩痛に襲われていた。同年オフには鎌先温泉(宮城県白石市)で1カ月、年が明けた1938(昭和13)年には椿温泉(和歌山県白浜町)で温泉治療に出向いている。若林の苦闘を見てきた松木謙治郎が書いている。<最後の望みをかけた温泉治療だった。背水の陣だったが、この休養が再び名投手として復活させることになった>=『タイガースの生いたち』=。38年春のシーズンは全く投げられず、登板はなかった。復帰は同年秋。1シーズン制となった1939(昭和14)年には自己最多の28勝をあげ、防御率1.09で最優秀防御率のタイトルも獲得した。

「醍醐味」の球数勝負

1940(昭和15)年には若林の投球を語るうえで、欠かせない試合がある。紀元二千六百年奉祝事業で初の満州(現・中国東北部)シリーズが行われた。甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)で壮行会が開かれている。8月11日、大連満州倶楽部野球場で阪急とのダブルヘッダー第2試合。1-0で完封した若林の投球数は80球。相手の森弘太郎は77球だった。両軍合計投球数で公式に残る最少記録は戦後1948(昭和23)年、同じく8月11日、大陽-阪神戦での「165」だ。この時も若林は木下勇と投げ合っている。満州では「157」で8球少ないが、戦前の記録は公式記録から除外されている。実際はプロ野球史上、史上最少だろう。若林と森は満州入りする郵船吉林丸の船室で「1試合27球が理想」と醍醐味を語り合い、「どちらが少ない球数で終えられるか」と勝負を誓っていたという逸話が残る。

この試合の公式記録員、広瀬謙三は記録の大家として知られ、後に殿堂入りしている。著書には「双方無四球」という項目があり、両軍投手が無四球完投した試合を列挙している。第1号がこの満州での試合だった。また試合時間56分は当時の最短記録。戦後1946(昭和21)年7月26日の阪神-パシフィック戦(西宮)で、さらに1分短い55分試合が成立。これがプロ野球最短試合となっている。ただ、満州での試合では阪急監督兼捕手・井野川利春のレガーズが壊れ、取り換えるのに4分かかっていた。若林も「実質52分だった」と記憶していた。

プロ野球創設時から球団や連盟運営に携わった鈴木龍二は<試合のスピードも特に留意した>と書いている=『鈴木龍二回顧録』=。人気の学生野球に対抗しようと、当時のプロは攻守交代などで時間短縮を心がけていたという。テンポも制球も良かった若林の投球は一つの手本だった。試合の長時間化が問題視されるいま、プロの魅力アピールにかけた先人の努力を思い返してみたい。

若林の似顔絵をデザインした1939年のポスター
=野球体育博物館蔵=
昭和15年7月、甲子園ホテルで開かれた満州遠征壮行会。前列右から4人目が若林、5人目が松方会長
=若林忠晴氏所蔵=
第1回満州リーグ記念品
=野球体育博物館所蔵=
満州遠征で現地・新京のチームとタイガースの選手たち
=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=
満州遠征を記念して作られた暑中見舞いのはがき
=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=

若林忠志をもっと詳しく知りたい方のために!

<筆者略歴>

内田 雅也(うちた まさや)
1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。