Vol.7 社会貢献 2011/9/15更新
少年刑務所の「若林杯」
「塀」が右翼フェンスだった。赤い煉瓦造り、高さ5メートル以上の塀は右翼から中堅方向に伸びていた。白い運動着の青少年が本塁をはさんで整列していた。
奈良少年刑務所の受刑者によるソフトボール大会の決勝戦である。2011年7月22日、所内運動場で行われた。大会は木工、理容、機械解体など職業訓練を行う所内17の実習場対抗のトーナメント戦。優勝チームに手渡された盾には「若林賞」と刻まれている。若林忠志が贈ったものだった。
1949(昭和24)年12月14日、阪神タイガースの監督兼投手だった若林は単身、同所を訪れ、講演などを行った。「青少年諸君に幼少時代のやんちゃぶりを話したが、すすり泣く者もあり、皆、更生を誓ってくれた」と若林の談話が残っている。そして「野球を通じ、スポーツ精神でよい青年に更生して下さい」と自作の優勝盾を贈った。同所100周年の記念誌によれば、翌1950(昭和25)年2月、「若林杯争奪」の第1回大会が行われている。当初は野球、後にソフトボール大会として毎年開かれ、今年は第62回大会だった。
閉会式の講評であらためて大会の経緯が説明された。前日7月21日に阪神球団が社会貢献などグラウンド外の慈善活動を表彰する「若林忠志賞」の創設を発表したばかり。所長の倉光修二が言う。「タイガースの憧れの選手が表彰されれば、ファンや子どもたち、受刑者にも〝人として成長しなくてはいけない〟との意識が広まる。阪神でも当所でも、同じ名前の若林賞が永久に引き継がれていくことを望みたい」
受刑者からの「感謝文」
若林の次男・忠晴のもとに、当時、同所「収容者自治会代表」の少年から届いた「感謝文」が残っている。複製されたものは甲子園歴史館でも展示されている。和紙に墨字で書かれた文章からは受刑者たちがいかに訪問に感激したか、更生を誓ったかが綴られている。
<若林先生が罪深く、けがれ多い我らの假屋(かりや)に直接足をお運び下さろうとは全く夢にも思い及ばぬことでございました><みんな感激で泣いてしまったのでした>。既に233勝を挙げていた若林はプロ野球の大スターだった。<先生ありがとうございました。じゅんじゅんとお諭しくださいました。ただ今のお話、さんぜんと輝く優勝盾、有形無形の贈り物を胸一杯の感激に燃えて、ありがたく頂戴致します><善良な社会人として立派に更生し、厚い今日の御恩にお報いすることを固く誓います><優勝盾は永く当所に残して、お志を次々と伝えていきたいつもりでいます>。盾は年月とともに古びてはきていたが、精神は確かに引き継がれていた。
- 若林が奈良少年刑務所に贈った優勝盾
- 奈良少年刑務所受刑者の野球チームは「塀の外」でも対外試合を行っていた(昭和30年ごろ)
=奈良少年刑務所所蔵=
- 奈良少年刑務所から若林に届いた感謝文(1949年12月)
=若林忠晴氏所蔵=
- 奈良少年刑務所の「塀の中」で行われた「若林杯」決勝戦(2009年7月7日)
- 優勝チームに優勝盾「若林賞」を手渡す奈良少年刑務所・倉光修二所長(2011年7月22日)
「タイガース子供の会」の創設
戦後、若林は日本の復興に、青少年の善導、育成を大きなテーマとしていた。1948(昭和23)年には「タイガース子供の会」を自費で立ち上げ、自ら代表に就いた。球団公認で事務所は大阪・梅田の阪神電鉄本社内に置かれた。同会は若林退団後も活動し、2003年までそのまま存続。2004年からは「タイガース公式ファンクラブKIDS」として今に通じている。
若林は「子供の会」を思いついた事件を語っている。1946(昭和21)年のゴールドスター戦(西宮)。大観衆がグラウンドにあふれ、多くの負傷者が出た。試合後、藤村富美男を伴い、病院を訪ねると、包帯でぐるぐる巻きにされた少年が「痛い」とも言わず、「おじさん、タイガースは勝った? ね、勝ったの?」と聞いてくる。「涙が出た。わたしは小さな手を握り、うなずくだけだった。戦後、子どもたちの目の輝きが違ってきていた。この子どもたちは宝だと思った。日本のプロ野球選手はファン層を広げる努力に欠けていた。この時の思いが後に子供の会を作ることにつながった」
発会1年後の1949(昭和24)年には機関誌「少年タイガース」を創刊した。妻の房(ふさ)や娘たちが甲子園球場前で入会申込書を配った。会員は全国で8500人を超えた。機関誌創刊号には「大人も及ばない社会的活躍」(若林)の記事がある。能登半島の石川県七尾支部発で、試合相手の少年が貧しさのあまり百貨店からバットを盗んでしまった。<家が貧しくて仲間外れにされるのを心配したのだと思います。でも正しいスポーツ精神では残念なこと>と、支部から若林、藤村、別当のサイン入りバットを贈ったのだった。当時の少年の1人は「野球をやらせてくれた。神様以上にありがたかった」と話している。
「野球の力」
同年10月23日には甲子園で来日したサンフランシスコ・シールズと全日本の試合があった。「子供の会」会長の中学生、富永佳世子が監督レフティ・オドールに贈り物を手渡し、あいさつ文を読み上げた。「野球を楽しみ、スポーツマンシップを学ぼうとして結びついた私たちは、やがてアメリカの少年少女と仲よくし、いつかは世界中の子どもたちと手をつなぎたいと望んでいます」。単に阪神ファンを育てるだけでなく、平和の尊さ、世界的な視野を伝える若林の姿勢がうかがえる。
今年、プロ野球は東日本大震災を受け、「がんばろう!日本」をテーマに、復興へ「野球の力」を掲げる。まさに戦後、若林が訴えていた「力」である。
- 若林が発案・編集した「少年タイガース」創刊号
(1949年10月)
- 創刊当時の「少年タイガース」編集室
=若林忠晴氏所蔵=
- タイガース子供の会とシールズの交流を伝える雑誌『ボールフレンド』。写真右からオドール監督、若林の次男・忠晴君、若林、宮原勝利君、富永佳世子さん。
- 阪神時代、少年を指導する若林
=若林忠晴氏所蔵=
<筆者略歴>
- 内田 雅也(うちた まさや)
- 1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。