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特設コラム 若林忠志が見た夢阪神タイガースが創設を決めた「若林忠志賞」は社会貢献活動やファンサービスで顕著な功績のあった選手に与える「グラウンド外のMVP」。球団創設時からの主力投手、監督も務めた若林忠志の功績を称えたものだ。「七色の魔球」と呼ばれた多彩な変化球を駆使する元祖頭脳派で、阪神であげた233勝は今も最多記録。球団歌やシンボルマークの作成にも関わった。戦後は今に通じる「タイガース子供の会」を立ち上げ、各種施設を慰問するなど慈善活動に努めた。東日本大震災を受け、「野球の力」が問われるいま、プロフェッショナルとしてのあり方を示した若林の姿勢が見直されている。若林の野球人生を振り返り、描いた「夢」を追ってみたい。(文中敬称略)

Vol.5 復興を夢見て 2011/8/15更新

石巻で迎えた終戦

若林は妻・房(ふさ)が疎開していた故郷、宮城県石巻で終戦を迎えた。房の兄で法政大同窓の本間寅雄とともに水産会社「太平洋水産社」を興し、社長に就いていた。

戦前から親交が深かった伊藤利清(兵庫県芦屋市)のもとに若林から手紙が届いている。1945(昭和20)年8月27日付の伊藤の日記に<嬉しきかな、若林さんからのお手紙>と文面が残る。<今からは大変だよ。しかし敗れたのだから、死んだと思って働けばいい。百年後の日本を思い、大いに働きましょう>

地元のノンプロ「日和(ひより)倶楽部」から誘いの声がかかった。チームの実質的オーナー毛利理惣治を頼り、法政大時代の同僚で捕手の藤田省三(後の近鉄初代監督)が石巻に疎開していた。

戦後初の日米野球

石巻日日(ひび)新聞がまとめた「石巻野球回顧」には<日和クラブも毛利部長を中心に、いち早くチーム編成の復活をみた>とある。今回の東日本大震災で被災し、手書きの壁新聞を発行した、あの新聞だ。<阪神タイガースの七ツ魔球をもつ一代の名投手若林忠志氏や藤田省三氏等に一役買ってもらい、戦後初めての日米野球戦が盛大に挙行された>

仙台市の進駐していた米軍パラシュート部隊、第18空挺師団との試合だった。1945(昭和20)年10月12日、石巻中(現石巻高)校庭で行われた。連合国軍総司令部(GHQ)に試合許可の申請を行うと、経済科学局長の少将ウィリアム・マーカットが「日本にいる大リーガーを集めろ」と命令した。マーカットは戦前、ハワイにいた若林と野球で対戦した経験があった。「戦勝国のメンツがあり、負けるわけにはいかなかった」

米軍先発は大リーグ・パイレーツで現役だったという右腕ワール。見たこともない速球に日和倶楽部の打線は沈黙した。復活した法政大黄金バッテリーもエラー続出ではどうしようもなかった。若林は完投したが、2―12の完敗だった。若林の感想が残る。「1年半ぶりでどこまでやれるか心配であったが、思うようにいけたのでホッとした」。米軍との試合はこの後、GHQが許可せず、1948(昭和23)年まで開催できなかった。

法政大当時の若林(右)藤田省三(左)
=野球体育博物館所蔵=
若林忠志(左)、藤村富美男(右)と肩を並べる学生服姿の伊藤利清さん。戦後の一時期は両選手とも伊藤さん宅に身を寄せていた。
=伊藤多慶子氏所蔵=
接収中の甲子園球場を背にした進駐軍兵士と曲射榴弾砲(1947年)=ラッセル・ピーターソンさん所蔵。甲子園歴史館提供=
甲子園球場関係者出入り口の鉄扉に残っていた機銃掃射の痕。
心動かした青年の情熱

年が明けた1946(昭和21)年、プロ野球公式戦が再開された。阪神球団代表・富樫興一が6月下旬、転居していた仙台の自宅まで訪れ、復帰要請を行ったが、若林は断っている。夫がそばにいることに幸せを感じていた妻の思いをくみ、また社長として多くの社員を抱えていた。

そんな若林の心を動かしたのが、あの伊藤利清だった。当時、大阪帝国大医学専門部(医専)にいた伊藤は手紙で再三、若林に選手不足に悩むチームの現状と復帰への思いを伝えていたが返事がなかった。このため単身、仙台まで出向いたのだ。7月4日、若林と再会を果たした伊藤は「僕は1人のファンではなく、日本中のファンの代表として来ました。若林さんが投げる姿を見たいのです」と訴えた。滞在最終日の7日、朝起きると若林の姿がなかった。伊藤日記に<小母(おば)さん(房)も電話が入って、若林さんが朝、飛行機で東京に行かれたことをご存じなく、驚かれていた>とある。若林は当時、米軍基地の通訳官に採用され、大尉の称号を得ていた。軍用機で東京に行き、後楽園球場で阪神-中部日本戦を観戦していたと、後に明かしている。この時は仙台に引き返したが、復帰への思いは募っていた。8月には現役・OB連合の全法政が行った東北遠征にも加わっている。

9月21日だった。若林は房に「ちょっと出かけて来る」と言って自宅を出た。手にした風呂敷包みにグラブとスパイクが入っていた。仙台から大宮に着くと、阪神定宿の海老屋旅館(千葉県松戸市)に電話を入れ、富樫に復帰手続きを依頼した。

「若林が帰ってきました」

翌22日、日曜の午後。房は縁側で縫い物をしながら、後楽園の巨人-阪神戦のラジオ中継を聴いていた。NHKの名アナウンサー志村正順が叫んだ。「若林です! 若林が帰ってきました!」

房は驚かなかった。仏壇に線香と灯明をともし、手を合わせた。5点リードの6回表1死三塁で御園生崇男を救援し、ピンチを脱出。9回まで投げきった。

その夜、房に電話を入れ「4、5日すれば帰る」と伝えている。受話器を置いた房は着替えや下着を持って、東京へ届けに向かった。衣類を受け取った若林はチームとともに西宮に移動した。戦前暮らした西宮市甲子園六番町の自宅は空襲で焼けていた。若林は芦屋市の伊藤利清の家に同居することになった。伊藤家には同様に自宅が焼け、妻を亡くした藤村富美男が3歳の娘とともに身を寄せていた。伊藤の両親は大阪・福島の本宅にいた。後に2リーグ分立で袂(たもと)を分かつ両者が一つ屋根の下、文字通り同じ釜の飯を食っていたのである。

戦後初優勝、2度目のMVP

1947(昭和22)年1月1日付で監督(投手兼任)に復帰。同年、戦後初の優勝を飾った。若林はチーム最多26勝をあげ、2度目の最高殊勲選手(MVP)に輝いた。1944(昭和19)年に続く受賞で、戦前戦後双方でMVPとなったのは川上哲治(巨人)と若林の2人しかいない。グラウンドとスタンドの一部が接収解除となった本拠地・甲子園球場が若林の復帰を見つめていた。

戦後、阪神に復帰した若林(写真は1947年当時)
=若林忠晴氏所蔵=
大鉄傘がない戦後の甲子園球場
=毎日新聞社提供=
戦時中の甲子園球場長、石田恒信さんが描いた「終戦時の球場略図」
=『続・甲子園の回想』をもとに作成=
1947(昭和22)年、戦後初の優勝を成し遂げた阪神ナイン。右端が若林
=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』より=
阪神監督兼任時代の若林(右)。中央は次男・忠晴氏(1947年ごろ)
=若林忠晴氏所蔵=

若林忠志をもっと詳しく知りたい方のために!

<筆者略歴>

内田 雅也(うちた まさや)
1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。