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特設コラム 若林忠志が見た夢阪神タイガースが創設を決めた「若林忠志賞」は社会貢献活動やファンサービスで顕著な功績のあった選手に与える「グラウンド外のMVP」。球団創設時からの主力投手、監督も務めた若林忠志の功績を称えたものだ。「七色の魔球」と呼ばれた多彩な変化球を駆使する元祖頭脳派で、阪神であげた233勝は今も最多記録。球団歌やシンボルマークの作成にも関わった。戦後は今に通じる「タイガース子供の会」を立ち上げ、各種施設を慰問するなど慈善活動に努めた。東日本大震災を受け、「野球の力」が問われるいま、プロフェッショナルとしてのあり方を示した若林の姿勢が見直されている。若林の野球人生を振り返り、描いた「夢」を追ってみたい。(文中敬称略)

Vol.6 アイデアマン 2011/9/1更新

ラッキーゾーン

1947(昭和22)年、投手兼任で監督に復帰した若林忠志は様々なアイデアを実行に移していった。戦時中、辛抱を重ねていたアイデアマンは戦後の自由な空気のなかで、本領を発揮していった。

本拠地・甲子園球場に「ラッキーゾーン」を設けるように提案した。ボールの材質が悪く、打球が飛ばない時代。さく越え本塁打は少なく、前年1946(昭和21)年のチーム本塁打は105試合で28本だった。何しろ甲子園は広かった。左右両翼91m、中堅118mだが、左中間・右中間は128mもあった。

「外野に塀をつくり、ファンが求めているホームランを出やすくしよう」。自身は投手なのだが、打者有利の球場への改造を進言した。阪神電鉄本社運動課長の辰馬龍雄(後の西宮市長)が「面白いじゃないか」と採用に踏み切った。既にシーズンは開幕しており、突貫工事で金網のフェンスをつくった。左中間・右中間は108・5mと20m近くも短縮された。

お披露目は5月26日の南海戦だった。選手たちは練習から「これならすぐにホームランが出そうだ」と話し合ったそうだ。ところが試合では一発狙いの大振りが目立ち、本塁打は出なかった。若林自身が1-0で完封してしまった。

後には「ダイナマイト打線」の猛打を演出し、1949(昭和24)年には137試合で141本塁打と威力を発揮した。甲子園にならい、神宮や西宮でもラッキーゾーンを敷設。甲子園も形を変えて存続し、名物となった。だが、時代は移り、国際基準に見合った広い球場への要請が高まり、1991年12月に撤去。役目を終えた。

ブロマイド商法

当時、選手たちは一向に上がらぬ給料に不満が募っていた。そこで若林は選手のブロマイドを作って売り、利益を還元する方法を考えついた。各球団のスター選手と契約し、契約金を前払いした。日本プロ野球史上初のブロマイドだった。

甲子園球場の出入り口でミカン箱の上に戸板を置いて写真を並べた。飛ぶように売れた。大阪・法善寺横丁で喫茶店を営む高坂(旧姓・加藤)峰子は当時のブロマイドを300枚以上、大切に保管している。戦後1950(昭和25)-51(昭和26)年に存在した女子プロ野球、大阪ダイヤモンドの捕手・内野手だった。「野球には夢がありました。女も野球ができる。自由と希望の象徴だった気がします。あのころ集めたブロマイドは宝物です」

写真の撮影・販売を担当したのは大阪市内で写真店を営む渡辺憲央だった。戦前から雑誌『ベースボール・ニュース』のカメラマンとして活躍していた。若林は自身が監修・発行人となり、1948(昭和23)3月に雑誌『ボールフレンド』を創刊。同誌にタイガース選手会から「ブロマイド御案内」と広告が出ている。発売元は渡辺写真機店(大阪市)となっている。

撤去される甲子園球場のラッキーゾーン・フェンス
(1991年12月5日)=スポーツニッポン新聞社提供=
プロ野球選手のブロマイドの数々
=高坂峰子さん所蔵=
若林のブロマイドと「大阪ダイヤモンド」当時の高坂峰子さん。パンフレットの紹介欄には「可愛らしい事は球団一で通っております」とある。
若林監修の雑誌『ボールフレンド』創刊号の表紙
若林発行の雑誌『ボールフレンド』創刊号に掲載されたブロマイドの広告。発売元は「渡辺写真機店」
サンデー必勝論

若林は1949(昭和24)年当時、「サンデー投手」と呼ばれるようになった。日曜日になると登板するという意味だ。当時は入場料から諸経費を差し引いた純益を勝利球団に6割、負けた球団に4割で分配していた。ナイターのない時代、日曜日の入場者が圧倒的に多かった。「勝てば球団がもうかり、われわれの月給もよくなる。たくさんの入場者がある日曜日にいい試合をすればタイガースファンになってくれる人もいるだろう。次の日曜日にも見に来てくれる」。サンデー必勝論である。当時の二本柱だった自身と梶岡忠義を日曜日の先発に起用した。

このシーズン、タイガースは8球団中6位だったが、分配金は優勝した巨人に次いで多かった。当時マネージャーで、精算伝票に押印していた奥井成一は「順位は下位でも球団経営に随分貢献したことになる。若林さんは経営感覚を持っていた」と回想している。

打ち出した「少数精鋭主義」も球団の経済事情、選手の低賃金解消のための方針だった。ペナントレースを戦ううえでの必要最小限の人数を23人と定めた。投手10人、捕手2人、内野手6人、外野手5人。実際1947年19人、48年21人、49年24人と実行した。

鉄の結束

球団代表・富樫興一、常務・田中義一との連携は「鉄の結束」と呼ばれた。例えば、当時の東京遠征中の定宿は千葉県松戸の「海老屋」だった。食糧事情の悪い時代、闇米が手に入る松戸には多くのプロ野球チームが泊まった。1階8畳間の監督室は本来若林専用だが、富樫や田中も一緒に寝泊まりした。富樫は「若林君と野球談議でもするか」と相部屋を歓迎した。奥井は手記に残している。<時間が経過するのも忘れるほどで、若林さんの部屋はいつも遅くまで電灯がついていた。だから球団責任者と監督が意思の疎通を欠くようなことはなかった>。フロントとの一体感があった。

阪神時代の若林(右)と藤村富美男(1949年ごろ)
=若林忠晴氏所蔵=
戦後、タイガースが宿泊した海老屋旅館のあった松戸市宮前町交差点。バスの向こう側辺りにあった。
海老屋旅館に近く、選手たちがキャッチボールもしていた松戸神社の参道

若林忠志をもっと詳しく知りたい方のために!

<筆者略歴>

内田 雅也(うちた まさや)
1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。