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特設コラム 若林忠志が見た夢阪神タイガースが創設を決めた「若林忠志賞」は社会貢献活動やファンサービスで顕著な功績のあった選手に与える「グラウンド外のMVP」。球団創設時からの主力投手、監督も務めた若林忠志の功績を称えたものだ。「七色の魔球」と呼ばれた多彩な変化球を駆使する元祖頭脳派で、阪神であげた233勝は今も最多記録。球団歌やシンボルマークの作成にも関わった。戦後は今に通じる「タイガース子供の会」を立ち上げ、各種施設を慰問するなど慈善活動に努めた。東日本大震災を受け、「野球の力」が問われるいま、プロフェッショナルとしてのあり方を示した若林の姿勢が見直されている。若林の野球人生を振り返り、描いた「夢」を追ってみたい。(文中敬称略)

Vol.2 ハワイの剛腕 2011/7/1更新

愛称「ボゾ」

若林忠志は1908年3月1日、ハワイ・オアフ島で生まれた。両親は広島県戸手村(現福山市)出身の移民で、パイナップルなどの農園を営んでいた。

生涯のニックネームとなる「ボゾ」(BOZO)と呼ばれるようになったのはマッキンレー・ハイスクールに進学した頃だ。あまりの腕白に手を焼いた両親が曹洞宗の寺に預け、頭を丸刈りにした。「坊主」が訛ったと言われる。また、大人のような風貌で、教師がスペイン語で「鼻下の毛」を意味する「bozo」と呼んだとする説もある。若林の孫(長女・津上麗子の長男)で、ジャズ・サックス・プレーヤーとして活躍する津上研太は自身がリーダーを務めるバンド名を「BOZO」とした。津上は「bozoには古い米口語でguy(ナイスガイのガイ)の意味もあり、腕白だったじいちゃんにはぴったりでしょう」と話している。

マッキンレー・ハイスクールではアメリカンフットボール部に入った。野球を始めたのは同校3年生に進級した1925年秋だ。「勇敢な男」とされた捕手を目指したが、1年先輩にカイザー田中義雄(後に阪神)がいて出番がなかった。カイザーは若林に「君は肩が強い。投手をやってみてはどうか」と勧め、投手人生が始まったのだった。ハワイ系初の大リーガー、「ホノルル・ジョニー」ことジョニー・ウィリアムス(デトロイト・タイガース)からランニングによる足腰強化の助言を受けた。「スモークボール」と呼ばれた剛球を投げるレフティ・グローブ(フィラデルフィア・アスレチックス)の投球フォームを研究した。速球には磨きがかかり、「ボゾ・ワカバヤシ」の名は知れ渡った。

マッキンレー・ハイスクール野球部時代の若林
(最前列中央)=若林忠晴氏所蔵=
若林はハワイ・マッキンレー・ハイスクール時代、アメリカンフットボール部でも活躍した。右足を高くそらし、ダイビングしているのが若林
衝撃の初来日

ハワイ日系人チームの朝日軍にも加わった。その名は米国本土にも伝わり、カリフォルニア州ストックトンの日系人チーム、大和軍の日本遠征メンバーに招かれた。こうして1928年(昭和3)4月、初めて日本に渡ったのだった。

初戦で対戦した法政大に2失点完投勝利。この時最後の打者として見逃し三振に倒れたのが後の名審判、島秀之助だった。自著『プロ野球審判の眼』で<角度あるアウト・ドロップ、意表を突くナックルボール、素晴らしいピッチングであった。このような豪速球を投げた若林を知る人は今ではほとんどいない>と記している。当時明治大2年で対戦した初代タイガース主将の松木謙治郎も<後に技巧派投手の代表とも言われたが、この時は速球投手で制球力不足。まことに怖かった>=『タイガースの生いたち』=と書いた。

初来日の衝撃的な投球で、法政大から熱心な勧誘を受け、1929年(昭和4)4月、入学を果たす。早慶全盛時代の東京六大学野球だったが、若林の活躍で法政大は1930年(昭和5)秋のリーグ戦で念願の初優勝を果たした。

剛球投手から技巧派に変身するのは翌1931年(昭和6)秋だ。右肩・肘を痛め、横手投げにフォームを改造。「七色の変化球」とコーナーワークで勝負するようになる。同年、レフティ・グローブやルー・ゲーリッグら大リーグ選抜チームが来日した際には全日本チームにも選ばれた。東京六大学での通算成績は87試合に登板(史上最多)、43勝(同4位)をあげ、3度のリーグ優勝に貢献した。

1933年(昭和8)1月には法政大同級生の妹で東京音楽学校(現・東京芸術大)に通っていた本間房(ふさ)と学生結婚をしている。若林24歳、房20歳だった。

「魔球」の誕生

法政大を卒業した若林は知人の紹介で社会人野球の強豪、日本コロムビア(川崎市)に進んだ。後に若林の代名詞となる「魔球」が命名されたのは1935年(昭和10)8月、都市対抗野球(神宮)で準優勝した時だった。準決勝で大連市・満州倶楽部を1-0で下した際、主催の東京日日新聞(今の毎日新聞東京本社)の大見出しに<守る若林の魔球>とある。準優勝チームから大会最優秀選手にも選ばれた快投は際立っていた。

ハワイ朝日軍当時の若林(中央)
=若林忠晴氏所蔵=
法政大当時の若林(右)藤田省三
=野球体育博物館所蔵=
※捕手の藤田は後に法政大監督、近鉄初代監督を務めた。
1931年(昭和6)、日米野球で全日本軍に選ばれた若林(右)と井野川利春=野球体育博物館所蔵=
※井野川は当時明治大捕手。阪急でプレーし、戦後、東急・東映で監督やパ・リーグ審判を務めた。
新婚当時の若林と房夫人
=若林忠晴氏所蔵=

若林忠志をもっと詳しく知りたい方のために!

<筆者略歴>

内田 雅也(うちた まさや)
1963年(昭和38)2月、和歌山市生まれ。桐蔭高、慶応大から85年スポーツニッポン新聞社入社。アマ野球、近鉄、阪神担当などを経て97年デスク。01年ニューヨーク支局長。03年編集委員(現職)。04年から『広角追球』、07年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。11年1月、『若林忠志が見た夢~プロフェッショナルという思想』(彩流社)を上梓した。